小浜島スケッチ帳8

小浜島スケッチ ⑦

母は毎朝「散歩」を日課にしていた。だいたいの1時間、何処かを歩いていた。そして決まってといって良い位に花を摘んできた。たったの一ヶ月だったが結構季節の変化も感じた。ある日、それまで何も無かった道で突然見知らぬ花が咲いていたと、興奮して帰ってきた。はっぱの形、花の付き方からジンジャーの仲間ではと、早速植物図鑑と照合してみたらゲットー(月桃)だった。カメラを取り出して撮ろうとしたらシャッターが下りない。カメラが壊れていたのだ。母は珍しく不機嫌になり、カメラが無いなら代わりに絵で描きなさいと、要求してきた。しかたなく真面目に写生したのがこの「月桃」だ。後で思うに、それまできちんと写生をした事がなかったので、すごく勉強になったと思う。それまで全然描いていなかった訳ではなかったのだが・・・。

雨の日は外に出られず、家の中ではすることがなく、しかたなく?採集した花の絵を描いたりしていた。最初に珍しいと思って写生したのは「コンロンカ(崑崙花)」だった。初めは「ガクアジサイ」ではと思い、「白いブーゲンビリア?」「ハンゲショウ」のように見えたりして珍しく一寸魅力的だった。近頃花屋で似たような花をちょくちょく見かけるので崑崙花では?と覗き込んだ。何という花かと名前を確かめると「ハンカチの花」と書かれていた。

月桃の花  ②崑崙花

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  • admin からのコメント: 張子の招き猫作りのイベント
    "SAYURIさんへ 12月10日・17日のPM2:30~子供教室で『張子の虎』を作りますので、その時一緒というのも良いです。 または、匠の会の中で、マイペースで「招き猫」を作る・・・という手もあります..."
  • admin からのコメント: 恵迪寮 春慕
    "北大の中を自転車で散策していたら、広い構内を走り回る自転車の数、芝生の上でバーベキューの用意をしている学生、いかにも教授らしい老紳士とのすれ違い。皆、自分達の場所をしっかりと持っている姿でした。しかる..."
  • 恵迪 3,59,31号 伊藤 からのコメント: 恵迪寮 春慕
    "伊藤様 こんな形で表現していただきありがとうございます。 友人から送られ、荷物をほどいたとたんに、当時の感慨が沸き起こってきました。 当時は、希望、疲労、喜び、興奮 野心...色々な感情の波の中..."
  • 園原弘美 からのコメント: 張子の招き猫作りのイベント
    "猫モノ展では、お世話になりました! 染色作家の園原です。 みなさんが作った招き猫を並べてみていると、飽きないですよね。 なんだか、ほのぼのして楽しくなりました! 張子を作る面白さを、教えてくだ..."

最近の投稿

post 木版画教室

木版画教室④

木版画教室「匠の会」2010年秋の予定表

予定日が多少変更になっていますのでお知らせ致します。

9月   10日(金)・11日(土)・24日(金)・25日(土)

10月   8日(金)・9日(土)・22日(金)・30日(土)

11月  12日(金)・13日(土)・26日(金)・27日(土)

12月   3日(金)・4日(土)・17日(金)・18日(土) 【予定】


post 招き猫豪徳寺 ⑨

招き猫豪徳寺⑨

招き猫版画作品の写真 ②

前回の⑧では、4点の内2点(①招福笑猫額・③招福仲間 )しか写真で紹介しませんでしたので、ここで②の「招福笑猫」を紹介させていただきます。

招福笑猫・・・画寸(22cmx265cm

本来なら、豪徳寺の「招き猫」のコーナーに仲間と一緒に納められていたのに・・・と思い置いて見たときの作品です。結果的には約一週間で行方不明になっていました。だれかが持ち帰ってくれたのなら嬉しいと思ってみましたが、他に一緒に無くなっていたのは皆、よそ者の猫ばかりでしたので、やっぱり処分されたのではと思っています。豪徳寺の招き猫だけが飾られているのは一寸不気味ですよねぇ。


post ⑩ 疎開先の話

「藤田嗣治」氏に関連して⑩

⑩  疎開先の話

「藤田嗣治」からの手紙の中に

『まだ雪が沢山で大変だらう、三三男りゆ子ようちゃん謙三で□アメリカの大英雄へよろしく大にやれと申して下さい。ダンスでもなんでも好きに大に発展やれやれ』

という一文がありました。これは、父から藤田への手紙に、私が生まれた事の他に近所に疎開していた高野三三男・岡田謙三(敬称略で失礼)の近況に対する反応で、「りゆ子」は三三男の妻(正式には「りう」?)、「ようちゃん」は岩田専太郎の妹さん?のようです。

戦争の為、多くの人が各地に疎開しました。東京の「文化人?」も知り合いを頼って各地に疎開しました。(高村光太郎は「宮沢賢治」との縁で、岩手花巻の賢治の実家に疎開しました)疎開先が米の獲れるところ・獲れないところ、裕福な町・貧乏な山村などで生活条件が大分違ったようです。彼らが疎開したのは登米町の西3キロ在の「森(も~り)」という農村で、徒歩で2~30分位の田圃の中の部落でした。田舎だからの情報伝達は早く「東京の誰々という絵描きが疎開して来ている」「何処何処には誰が」と、登米の父の耳にすぐに伝わって来ました。「花柳章太郎」が来るという話がどう間違っていたのか「花柳徳兵衛」だったとか。という具合で、都会と地方との交流が戦争のおかげで出来たのでした。「登米」に伝わっている「能」もそういう伝承だと聞いています。古くは「応仁の乱」で京都から多くの文化人が各地に疎開、文化が伝わったという話を聞いたこともあります。

話が変な方に逸れてしまったので戻します。

父は幾度か「森」に尋ねていったようで、その時の様子を藤田に報告したと思われます。

1940年、藤田はフランスから岡田謙三・高野三三男・岡上りうと一緒に帰国しているのを父は当然知っていたのでしょう。内容から察するに、「も~り」での「ダンス」は地元では驚きだったでしょう。{私でさえ小学校(東京世田谷の)の時、「伊藤の親父とお母さんが家で裸でダンスをしていたという変な噂」を流された事があった位ですから} また、「アメリカの大英雄」とはどういう意味だったのでしょうか。

叔父「伊藤精二」の思い出話〝天国と地獄〟 の中に、父と一緒に「森」に行ったことが書かれていたので紹介します。

『23年の6月初めだったか・・・

悌三兄と一緒に、

佐沼街道のまん中あたりにある部落、モーリ(森)まで歩いた。

岡田謙三、高野三三男が田ん圃の畦にイーゼルを立て絵を描いていた。二人共同じ風景画だが、なんとグリーン「緑」一色のみ、帰り路、悌三兄云わく、あんなとこで勉強していやがる。まったく周囲(まわり)は緑のvariation「変化」とharmony「調和」のみイワユルaccent color「ポイントになる色彩」がない。だから普通・・・・

5月から○○月頃までは、絵にならないと、されている。

しかし身体(からだ)には最高!

森の都、仙台。

特に若葉町の字の如く、

・・・・・・・・・・・・・ 』

母の弟「精二」は、東京美術学校時の戦争繰り上げ卒業組で、戦後ぶらぶらしていたので、父はモーリ行きをさそったようです。緑一色の中で絵を描いている先輩達に、父は何もしていない?自分が一寸後ろめたく、この発言になったのかもしれません。事実この辺はまさに米どころ、見渡す限りの「田圃」だったのです。

高野三三男の画集を見る機会があり、ぱらぱらとめくってみたら、ピカソの「青の時代」のように「緑の時代」と書かれていたのを発見、「モーリ」の田圃で描かれた時代ではと思った事がありました。

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小浜島スケッチ帳 7

⑨ 戦後の『戦争責任』について

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