⑥ ニューギニアの密林と「野火」

「藤田嗣治」氏に関連して⑥

ニューギニアの密林と「野火」

父の「戦争画」と云われる作品は『玉城挺身斬込五勇士奮闘』と『ニューギニア密林地帯を征く』の2つがあり、先輩画家の中に混じっての作品制作に注ぎ込んだ情熱は相当な物であったと思われる。『ニューギニア』は、密林の中を行く輸送部隊が題材なので、欝蒼とした密林描写を忠実に描いた為真っ暗な絵になってしまったようで、そんな父の絵を見て藤田嗣治は「いくら暗いからと云って真っ暗く描いたら闇夜の烏のようで何も分からない。暗いと思わせるように描かなければ」と忠告してくれたと言う。蔓の絡まった熱帯樹木等のスケッチが残っているので、父は蔓に絡まった密林の凄さが頭の中から離れないで居て、そこまで目が届かなかったのかもしれない。

戦後、米軍から返還(無期限貸与)され修復が完了した時点で国立近代美術館より見に来るかの打診があった。戦後、戦争画を否定・拒否する画家もおり、こういう打診となったようだ。父は「他所で生んだ子供に会いに行くようだ」と、とまどいながらも出かけていった。帰ってきた父は「伊藤悌三はけっこう上手い絵描きだった」と興奮した様子で語った。下手な絵だったら恥ずかしいと心配していたようなので、自分が思っていたより「力作」だったので安心したのだろう。後日、国立近代美術館で展示されると聞いて私も見に行った。美術団体から離れて久しく、公募展用の『大作』を制作していない現在の父の作品(大きくても30号)と比べると、圧倒される力強さ・迫力がそこに見られた。

戦後まもなく父の所へ雑誌の編集者から大岡昇平氏の「野火」の挿絵の依頼があった。出来上がった挿絵を見た大岡氏は、この人は同じ部隊にいた人か?と聞いたと言う逸話が残っている。

父は、陸軍報道部の配属で、フィリピンやニューギニア方面を数回取材で出かけている。作家と画家がペアになり、軍の指令で戦地に赴き、作家が記事を書き画家が絵を描くという形での取材していたようで、まだ燻っている大同の石仏前で石坂洋次郎氏と一緒に写っている写真があった。

という事で、父には「野火」の原風景が手に取るように分かっていたので挿絵が簡単に描けたのだろう。『密林地帯を征く』と同じ「蔓」も入っていた。昭和49年?、限定本出版の『成瀬書房』が「野火」の出版を大岡氏に持ちかけた所、「野火」は雑誌『文体』に2回に分けて発表したもので、その後何度か改稿されており、初稿の状態での『本』が無いのでそれなら良いという事になったという。その場合、その時の伊藤悌三氏の挿絵を使うなら、と注文が付いたと聞いている。       (スケッチ4枚は「野火」の挿絵から)