金唐革紙(金革紙)

  『金唐革紙と擬革紙』久米康生著から読む①

 

私の「ルーツ探しの旅」というと大げさですが、いろいろと伝え聞いていた昔の話等から興味が湧いてくるのは当然な事と思います。ましては、『版画』と関連する『金唐革紙』の事ですからなおさらです。父「伊藤悌三」が他界してしまった今、近親からの情報も皆無となってしまっています。

王子の「紙の博物館」発行の『金唐革紙と擬革紙』を読むと、詳しく書かれているので大変参考になりました。新たな疑問も生まれたりもしたので、その辺から調べてみたいと思います。

 

この本の中で「伊藤」の名が出てくるのは2箇所です。

    明治23年の第3回内国勧業博覧会に出品の業者の内に

『高彫壁紙  麹町区飯田町四丁目  伊藤 荘平』

  伊藤荘平は明治16年に竹屋(山本清蔵)から独立し、45人の職工がいた。・・・・・・(P35)   

    山路壁紙製造所の解説の中に

   山路壁紙製造所は明治23年(1890)に東京の牛込区水道町42で創業し、印刷局にいた技術者や職工を雇って良質の壁紙をつくった。そのころ日本壁紙や伊藤壁紙は大規模だったが、・・・・(P43)

とありました。

 

「山路さんの工場は今の江戸川小学校。うちの工場は伝通院裏の『跡見学校』になった・・・」と、父から聞いていたが、今でも「本当だろうか」と、少々疑っている。(そのうちにちゃんと調べておきます)

また父は、子供の頃山路良三氏に会ったことがあると話していた。「いい感じの年寄りだったので、父に「いい人だね」と言ったら、父は声を荒げ「とんでもないくわせもんで、貸した版木棒を全然返さない」と怒っていたという。東五軒町の家には、物置に沢山のロール版木等が山積みに在り、これらは戦災ですべて灰になってしまったと聞いている。

以前、王子の紙の博物館(旧)で展示されていたロール版木と偶然出会い、その版木の隅に「伊藤○○」と彫られていたのを発見したことがある。うちの版木かどうかは確認しなかったが、ひょっとして、「山路」に貸した版木が返してくれなかったお陰で、戦災を免れ残ったものかもしれない。

(写真は箔と空摺りの技法を生かして制作した木版画『藪椿尽くし』)