⑩ 疎開先の話
「藤田嗣治」氏に関連して⑩
⑩ 疎開先の話
「藤田嗣治」からの手紙の中に
『まだ雪が沢山で大変だらう、三三男りゆ子ようちゃん謙三で□アメリカの大英雄へよろしく大にやれと申して下さい。ダンスでもなんでも好きに大に発展やれやれ』
という一文がありました。これは、父から藤田への手紙に、私が生まれた事の他に近所に疎開していた高野三三男・岡田謙三(敬称略で失礼)の近況に対する反応で、「りゆ子」は三三男の妻(正式には「りう」?)、「ようちゃん」は岩田専太郎の妹さん?のようです。
戦争の為、多くの人が各地に疎開しました。東京の「文化人?」も知り合いを頼って各地に疎開しました。(高村光太郎は「宮沢賢治」との縁で、岩手花巻の賢治の実家に疎開しました)疎開先が米の獲れるところ・獲れないところ、裕福な町・貧乏な山村などで生活条件が大分違ったようです。彼らが疎開したのは登米町の西3キロ在の「森(も~り)」という農村で、徒歩で2~30分位の田圃の中の部落でした。田舎だからの情報伝達は早く「東京の誰々という絵描きが疎開して来ている」「何処何処には誰が」と、登米の父の耳にすぐに伝わって来ました。「花柳章太郎」が来るという話がどう間違っていたのか「花柳徳兵衛」だったとか。という具合で、都会と地方との交流が戦争のおかげで出来たのでした。「登米」に伝わっている「能」もそういう伝承だと聞いています。古くは「応仁の乱」で京都から多くの文化人が各地に疎開、文化が伝わったという話を聞いたこともあります。
話が変な方に逸れてしまったので戻します。
父は幾度か「森」に尋ねていったようで、その時の様子を藤田に報告したと思われます。
1940年、藤田はフランスから岡田謙三・高野三三男・岡上りうと一緒に帰国しているのを父は当然知っていたのでしょう。内容から察するに、「も~り」での「ダンス」は地元では驚きだったでしょう。{私でさえ小学校(東京世田谷の)の時、「伊藤の親父とお母さんが家で裸でダンスをしていたという変な噂」を流された事があった位ですから} また、「アメリカの大英雄」とはどういう意味だったのでしょうか。
叔父「伊藤精二」の思い出話〝天国と地獄〟 の中に、父と一緒に「森」に行ったことが書かれていたので紹介します。
『23年の6月初めだったか・・・
悌三兄と一緒に、
佐沼街道のまん中あたりにある部落、モーリ(森)まで歩いた。
岡田謙三、高野三三男が田ん圃の畦にイーゼルを立て絵を描いていた。二人共同じ風景画だが、なんとグリーン「緑」一色のみ、帰り路、悌三兄云わく、あんなとこで勉強していやがる。まったく周囲(まわり)は緑のvariation「変化」とharmony「調和」のみイワユルaccent color「ポイントになる色彩」がない。だから普通・・・・
5月から○○月頃までは、絵にならないと、されている。
しかし身体(からだ)には最高!
森の都、仙台。
特に若葉町の字の如く、
・・・・・・・・・・・・・ 』
母の弟「精二」は、東京美術学校時の戦争繰り上げ卒業組で、戦後ぶらぶらしていたので、父はモーリ行きをさそったようです。緑一色の中で絵を描いている先輩達に、父は何もしていない?自分が一寸後ろめたく、この発言になったのかもしれません。事実この辺はまさに米どころ、見渡す限りの「田圃」だったのです。
高野三三男の画集を見る機会があり、ぱらぱらとめくってみたら、ピカソの「青の時代」のように「緑の時代」と書かれていたのを発見、「モーリ」の田圃で描かれた時代ではと思った事がありました。