「新樹会」について・・・伊藤悌三遺作展

伊藤悌三遺作展 《新樹会》について・・・・続き・・・

③「新樹会」という名前はどういう経緯で付いたのだろうか。

ちゃんと聞いておけば良かったのだが、今となっては、私の勝手な解釈しか無い。(昭和17年、長男が生まれ、「萌木」と命名した。色の「萌黄」から取ったところから、父には“新緑の草木が芽吹く”イメージがあったようだ。この事と繋がるような気がしている。)

新樹会の創立メンバーの十人はどのように纏まったのだろうか。“光風会80年史”P157「戦争画」の所に“光風会所属の十名が、中国国民政府興亜院の依頼で渡中する事になった”と云う記述があり、浅井閑右衛門・南政善・鈴木栄二郎・黒田頼綱・石川滋彦・井手坊也・須田剋太・大河内信敬・山口猛彦・あと一名は名が伝わっていないと書かれていた。他一名が伊藤悌三で、何故不明と記述されているかの方が不思議だがその件はさておき、この十名のうち9名が「新樹会」の創立会員と重なる事である。(石川滋彦氏はこの年「光風会」を辞し「新制作協会」へ去ったので川端実氏が参加したのか?)

作品は『新樹会』出品作「口紅」1949年 F30号16口紅