宮沢賢治 題材の木版画作品 2

日経新聞文化欄で紹介された記事を紹介致します。

 

日本経済新聞 1995年9月5日 朝刊36P(文化欄)

かるたで遊ぶ賢治の世界

=童話・詩・劇などを題材に木版画で手作り=

伊藤 卓美

☆  喜ばれ感動、プロに ☆

来年の宮澤賢治生誕百年を前に各地でいろいろな記念イベントが企画・開催されている。私もささやかながら“賢治歌留多”の個展を開催し、私的にお祝いすることになった。これは、賢治の童話など五十作品(絵札、字札の計百枚)を題材にしており、木版画でかるたを作り子供と遊びたい、という昔からの願望の実現でもある。

私と賢治とのかかわりは、サラリーマン二年目に始まる。測量機器の会社に入り、マンネリ気味な社会人生活を送っていた時、新聞で宮澤賢治研究会という団体の会合を知り、参加してみた。

この会は会社員、主婦、学生らが集まった団体で、その多くはそれぞれに自分の中に“賢治”を持っていた。星座から会に入って来た人、植物、動物、鉱物、音楽、文学、教育、宗教、演劇・・・私の全然知らない世界が沢山あることがわかった。

例えば賢治作品に自分で作った曲をつけ、レコードまで作って配っていた人。賢治の歩いた山道をそのとおり歩いて賢治が採集した石ころを探し出して見せてくれた人。普段はなんでもない石ころでも、賢治ゆかりの石となると宝物に変っていた。

仕事仕事で毎日が終わってしまっていた私にとって、仕事以外の自分の世界を持てた事は大変な収穫だった。私にも何かできることはないかと考えてみたら、年賀状の延長のような版画があった。早速、賢治に関連のある版画を作って配ったところ、自分でもびっくりするほどの評判となった。後に私が八年間勤めた会社を辞め、版画で自立しようと決意したもとには、この「喜んで受け取ってくれた」という感動があったのだと思う。

ただこの時は、どうしても賢治童話を版画作品には作れなかった。私の絵を見て童話を読んだ子供に私のイメージを植え付けてしまうのではという心配や「大人」になってしまった私の“夢のない絵”に対する自己嫌悪のようなものがあったかと思う。

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親子で楽しむのが夢

そんなある時、子供の絵本の挿絵などで活躍した童画・版画家の武井武雄氏の展覧会を見る機会があった。多くの版画作品や手作り本の中に、子供用の下駄に描かれた絵や羽子板、かるたなどを発見した。

かるたは、「童謡歌留多」であったか「いろは歌留多」であったかは忘れたが、あきらかな手作り。

私は、これは武井氏が自分の子供のために作ったものではなかったか、と直感した。ちょうど私にも小さい子供がいたので、私も自作のかるたを作って子供と遊べたらどんなにいいだろうかと、感じたものだった。

私のかるたの思い出は百人一首で、子供のころ正月に、兄弟三人で毎日だれかが泣くまで熱中した。父が最初に「空札いちま~い」といって、「くじらほゆる げんかいなだを すぎゆけば ゴビのさばくに つきやどるらん」と詠んだのを、何のことだかわからなかったが、いまだに覚えている。今度は私が子供たちと自分で作ったかるたで「空札いちま~い」と遊べるのだ。

武井氏の作品に刺激されて制作意欲がわき上がり、作るかるたは「郷土玩具いろは歌留多」に決めた。郷土玩具を各地方から一つずつ選び、いろは四十八文字の読み札と組み合わせた。これを彫って摺るには一年以上の時間がかかり、財政的にも大変なので「蔵書票」という形で書票主を募集して協力をお願いした。

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一枚ずつ自ら版画張り

蔵書票とは、日本でいう蔵書印の西洋版で、自分の名を入れた小版画を自分の本に張る。近年は日本でも盛んになり、「紙の宝石」などと呼ばれ、愛好家による交換会も行われている。今回は、絵札のバックに蔵書を意味する「EX LIBRIS」の文字と、書票主の名をローマ字で入れて蔵書票とし、読み札の頭文字を加えた図柄にし、愛好家に買ってもらった。集まらなかった分は、子供やお世話になった人たちの名を書票として加えた。

版画までの制作はお手の物だが、ここで一つ大きな問題が起きた。かるたに仕上げてくれる業者を捜してみたのだが、三十セットの少量では割が合わないと断られてしまった。残る手段はただ一つ。自分で一枚一枚、版画をボール紙に糊(のり)で張り、さらに色紙を糊張りして仕上げていくしかない。自分でコツコツと糊張りするのもまた楽しいものだ。

翌年の正月には、完成したかるたでめでたく空札を詠んだのはいうまでもない。こんなぜいたくをしていいのだろうかと思ったものだが、気が付いたらせっせと二作目の「花の歌留多」に取り掛かっていた。好きな花の小品版画を気ままに作っているうちに三十数種たまっていたからだ。

かるたは二作で終わりと考えていたのだが、どうしても三作目を作らなければならなくなってしまった。三番目の子供が生まれ、かるたに「私の名前がない」と騒ぎだしたのだ。

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50作品の名文を抜粋

その時は賢治生誕九十七年目。百年記念の企画が各所で動き出していて、私も何かできないかと考えており、今まで近づかないでいた童話を版画にしてみようという気になっていた。すでに沢山作られているものとは違う形でまとめてみたい。そこで“歌留多”の再登場となった。

自分で賢治の童話、詩、劇などから五十の作品を選び、それぞれの作品の、よく知られた文章の一部を読み札にする。例えば「銀河鉄道の夜」の場合、「では、みなさんは、さういふふうに川だと云はれたり」を字札とし、絵札は絵のほかに文頭の「では みなさんは」との文字を付ける。百人一首とは逆で字札をよんで絵札を取るという仕組みだ。

自分勝手に五十点選ぶというのは実に難しく、また楽しい作業でもあった。外出の時には、小さなファイルに資料を入れ、電車の中ではいつもちらちらと眺め、チェックする。眺める時間が多ければ多いほど、アイデアや発見があるからだ。

七五調でやろうかとも思ったが、どうも川柳風になってしまうし、いろは順では「で」「ぬ」「る」ではじまる例が少ないし、どうしても有名な文章ではなくなってしまう。結局、意味ある文章を抜粋することにしたが、何枚かの絵札についてはわざと似たように描き、かるたを取るのに間違えやすくする工夫をしてみた。

おかげさまで今回も書票主のご協力をいただいた。また、子供たちの名前も、名前の由来となった作品に書票主として参加させることができた。これで恨まれないで済む。賢治の一作品につき数枚の版画を作った例はいくつかあるが、賢治の作品五十についてはこれが初めてと自負している。九月中旬には東京・新宿の百貨店で「宮澤賢治・イーハトーブの世界」と題して賢治歌留多の木版画展を開く。目下、これに向けて毎日かるたの糊張りに追われている。(いとう・たくみ=木版画家)

 

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