⑨ 戦後の『戦争責任』について

「藤田嗣治」氏に関連して⑨

戦後の『戦争責任』について

藤田嗣治は「津久井郡小淵村」に疎開したと記録されている。私が父から聞いていたのは「藤野町」だったので調べてみたら「藤野町小渕」となっていた。藤田の疎開に伴い多くの画家が周辺に疎開、藤田を中心にしたファミリーのような状況だったと聞いている。それが、終戦後に「戦争画を描いた人が戦争責任を問われるのでは」と云う噂が流れると、手のひらを返したように皆冷たく藤田に当たったようで、「口も聞かず、家の前を通らず(わざわざ裏道を通るなどして)無視された」と、父は君代夫人から「ひどいでしょう」と泣きつかれたと言う。今迄、散々世話になっていながら・・・と言う思いが強かったのだろう。藤野に疎開した画家は、猪熊源一郎・中西利雄・佐藤敬・伊勢正義・脇田和・荻須高徳氏等がおり、誰が手のひらを返したのかまでは聞き覚えていない。極めつけは、左翼に転向した内田某氏(色々なところですでに公表されているようだが)が、玄関口で暴言を吐いた・・・と言う話になる。君代夫人は半ば狂乱状態で語り、藤田嗣治は、ただじっと黙っていてその事に関しては何も語らなかったという。父が何処(藤野?)でこの話を夫人から聞いたのだろうか。内田某氏の名前の発信源は、晩年日本に帰国した夫人がこのような事を語っていたと雑誌編集者から聞いた事がある。本当だとすると、「一生の恨み」だったのではと推測出来る。

夫人から聞かされた人達は、あまりに過激な発言なので、そのまま鵜呑みにしての公表を差し控えているのかもしれない。

父は、どういう筋からの話か、進駐軍から頼まれ軍人の家族の肖像画を描いた事があった。その関係から進駐軍の大佐の人に「戦争責任」の事を聞いたところ「そんな馬鹿な事は無い」と一蹴されたと云っていた。

藤田は、一度だけ世田谷梅ヶ丘の家に訪ねてきたことがあったという。聞けば、同業画家の家を訪ねるのに場所が解らなかったとの事で父がご案内をしたという。戦前は昭和10年代、若手の絵描きの多くが、世田谷・杉並などの安い郊外に引っ越して来ていた。面白い事に、近すぎるのを嫌って散らばって住んでいた。

 

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