東日本大震災での版画制作『三陸の鬼達への願い』
東日本大震災での版画制作
『三陸の鬼達への願い』
地震が起きた時、私は宮城県登米市に送る宅配便を近所のファミリーマートに出しに行っていた。まさか送り先が震度6,9だとは思わなかった。悪夢の一夜が明け、時間の経過とともに、テレビで三陸沿岸の津波の状況が映り出し唖然とした。青春のひと時を過ごした所や取材で訪れた港町が壊滅状態で映っていた。ガレキの中から「虎舞」のかしらが見つかったとの映像が流れたとき、三陸の民俗芸能は大丈夫だろうか、伝承出来なくなってしまうのではと心配になった。丁度秋田のナマハゲの作品のアイデアをまとめていた私は、急遽三陸の「スネカ」に題材を変更した。何も手伝い出来ない私に出来ることは、「版画」を作る事しかなかった。テレビを見ながら涙を流し、オロオロしながら制作したと言ったら大げさだろうか。
丁度「日本版画会」の文集用の原稿の締め切りが迫っていたので、この辺の経緯を書いて見た。
心構えの反省
若い頃はよく民俗芸能を求めて各地を旅した。月遅れのお盆や秋の収穫期はお祭りが目白押しで日程を調整すると結構効率よく取材出来た。絵になる漁村も興味があったので、三陸沿岸にもかなり出かけた。この度の大震災の報には「やはり起ってしまったか」と「やっぱり駄目だったか」という思いが強く、「またきっと力強く復興してくれる」という願いと期待しか出来ない自分があった。貞山堀で遊んだ東松島、大漁旗をなびかせ軍艦マーチを鳴らしながら威勢よく漁船団が凱旋して来た石巻港、鯨歯の印材を探し回った鮎川・女川、志津川・気仙沼・釜石・大船渡・宮古等など鹿踊や剣舞・神楽等の芸能を追っかけた町がすべて波にさらわれてしまったテレビ映像は、驚きの何者でもなかった。
地元の人との会話の中で、一寸安易に「津波」と云う言葉を出してしまった時、怒った顔して「冗談でもそんな言葉は言って呉れるな」と、釘を刺された事があった。いつかまた絶対やって来る大自然の脅威を感じながら、彼らはその中で生活しているのであり、通りすがりのよそ者の無神経さにかなりの怒りを覚えたに違いない。深く反省した私は、以後地元の人の津波に対する備えに目を向けるようになった。とてつもない高さの防波堤の小さな漁港。でも、今回の大津波は軽々とその上を越していってしまった。
以前、「浪越峠」という話を聞いたことがあった。海岸からかなり高い所にある峠で、かつて津波がこの峠を越えたと言う伝説があり、いくらなんでも嘘だろうと云っていたら、本当に越えた津波があったと言う話だった。宮古市の重茂(おもえ)と云う地区はあわび・わかめが特産の漁村なのだが五十メートル位高い所にその集落があった。以前津波でやられたので高台に家を移したのだと聞いた。それでも、海辺に行くのが面倒になったのか低地にいくつかの家が建てられていた。あそこは絶対やられたに違いないと思っている。
それでは自分たちの地、東京はどうだろう。歴史的にも五十年に一度大地震が起こると言われ私達は育って来た。今はもう百年近く起っていない。その時に備えて私達は何の備えをしているのだろうか。何もしていない自分が、「地震」と云う言葉を安易に口に出しているのが怖い。
現地の生々しい映像を真の当たりにし、何も出来ない自分があえて出来ることを考えた時、そこにはやっぱり「版画」しか無かった。今、復興を願いつつ、こつこつと彫っている。
伊藤卓美 記