伊藤卓美 年賀状作品について(3)
小学時代の私は、世間でよく言われる“落ち着きのない”子供でした。こまねいた先生は、学級委員長の生徒と並ばせ(二人席だった)、しかも私達の為だけに一列を増設した(4列を5列に)。(その前は、余りに後ろを振り返るので、「初めから後ろ向きに席を作ったら・・・」とも言われたことが)そんな元気な卓美君はよく机をキャンバスに工作の授業をしていた。(宮澤賢治でさえ、机に富士山を彫ったと言われているから、卓美君なんてごく普通の子供です。)消しゴムは格好の素材でした。高校になってから、その頃の“力作”が、小6理科の教科書の裏表紙に押されていたのを発見!保存してありました。なんと、よく見ると、現在使っている自作の印と余り変わっていないのです。
宮沢賢治 伊藤卓美手摺り木版画本「宮澤賢治絵葉書帳」
手摺り木版画限定本 「宮沢賢治絵葉書帳」の表紙版画 『イーハトーブ絵図」
賢治絵葉書帳の表紙用に制作したもので、表紙用のものは邪魔のならない様に“薄く”摺った物を採用した。作品用には黒版を強く摺っている。主な賢治作品に出て来る舞台を入れた絵図に仕上げて遊んでみた。たしか、沢田研二の「TOKIO」が流行っていた後だったか?と記憶している。
年賀状版画作品について(2)
私の版画制作の原点は“版画の年賀状”でした。
最初の作品は幼稚園の頃で、ジャガイモを半分に割った全面に顔を彫った作品で、絵の具に澱粉が混ざりチカチカと光っていた記憶があった。
木版画の第一作は、小学6年?の12歳の時の年賀状で、犬が靴下を咥えた構図と、はっきりと覚えている。(西洋式に“年賀とクリスマス”の祝いと云った洒落ではなく、明らかに正月とクリスマスを混同していたに違いない。)その版木は保存してあったのだが、ある時、庭のたき火の灰の中にその残骸を発見し絶句した。今、その版画は残っていない。
版画家となってからのある時、九州の親類から「家を整理していたら子どもの時の卓美君の版画の賀状が出て来たが、要るか要らないか」という電話があった。要るから直ぐに送って!と頼んだら、届いたのは、私が思っていたのとは全く違う「いも版」の版画だった。(宛名書きは母の字で、版画も母が彫ったものではと思っている。)私が覚えていた「いも版」は実在していたのだろうか。